コラム「猫の手も借りたい」№254 尽きない後悔、共に歩む楽しみ
最近、TV番組でクロアチアの、コウノトリを保護した男性のドキュメンタリーを見た。
翼を傷め、飛べなくなったメスのコウノトリを四半世紀前に保護したおじさん。
普通に、保護した鳥と暮らしてるおじさんの話ではない。なんと、このメスのコウノトリには夫がいて、越冬したアフリカから春になるとこの地に飛来し、そしておじさんのコウノトリと巣引きをし、子育てをする。このおじさんは、このコウノトリと一緒に巣を作り、子育てもお手伝いする、すごいおじさんなのである。
まず、おじさんのコウノトリとコウノトリの夫とは生き餌しか食べないから、毎日餌の魚を調達しに、高齢になったおじさんは川へ釣りに行く。魚は生きていないと食べないそうなので、魚がたくさん釣れた日はバケツででも泳がせて、ストックしておくのではないか。
おじさんのコウノトリは、春になるとおじさん宅の屋根に作った巣で、夫をひたすら待つ。
どうやらアフリカに、夫のコウノトリの研究者もいるらしく、夫を目撃したという連絡は入っているようだった。
コウノトリはツガイになった相手とは生涯連れ添うそうである。
やっとアフリカから辿り着いた夫、オスのコウノトリを認めると、おじさんはその鳥にもエサを与え、二羽の世話をしてやる。もう、見ていると涙ぐましい甲斐甲斐しさ、孵化したベビーコウノトリにもおじさんはバケツに入れた餌を梯子をかけた巣まで運んでやる。
おじさんのコウノトリは、翼を傷め飛べないので、夫婦交互に餌を捕りに行くことは出来ないわけである。
ベビーコウノトリの餌は、生きていなくてもいいようで、魚の切り身を与えているようだった。
育ったベビーたちは、父親に着いてアフリカに渡って行く。
その巣立ちの時のおじさんのコウノトリは、飛べない翼を一生懸命羽ばたかせ後を追って行こうとし、道路の真ん中に降り立ってしまったりするので、おじさんは道路に出て車を止め彼女を抱きかかえ、自宅に連れて帰る。
この四半世紀の間に、このコウノトリの夫婦が生み育てたベビーは50羽以上になるそうである。
おじさんは振り返って後悔する。「この子を保護して、果たしてこの子のためになったのだろうか、あの時に一生を終えたほうが、コウノトリとしては良かったのではなかろうか」と。
人の手が入った不自然な巣引きや子育て。おじさんのメスのコウノトリだけでは、最初から無理だったことだろう。
一番切なかったのは、春に越冬地から夫のコウノトリが戻って来なかった時であった。
おじさんのコウノトリとおじさんの気持ちを思うと、本当に本当に切なかった。
私が「飼い主のいないネコ」を保護し面倒をみることに比べ、百倍も二百倍も大変なことを、おじさんはしていると思う。
トラミさんは、お陰さまで低空飛行ながら元気でおり、ピックアップからほどなく2年が経とうとしているが、未だに触れない。本当に屋外から保護してよかったのか、と我が胸に問う。常に迷いの心、後悔は付き纏うが、その中でも好きなものを美味しそうに食べて、満足した素振りでまあるくなって寝ているトラミさんを見ると、共に歩む楽しみのような、そんな幸せな実感があることも事実である。
もちろん、コウノトリとネコでは比べものにならない隔たりがある。
人はネコと何千年も前から共に暮らしているが、コウノトリと人が暮らした実績はなく、おじさんはそんな中で彼女と四半世紀も暮らしているわけであり、私などとは比べようもないほど「尽きない後悔」と「共に歩む楽しみ」が、表裏にあるように思う。
ネコは「愛護動物」でコウノトリは「野生動物」であるが、まあこの「愛護動物」というくくりを決めた?考えたのも人間であり、どうでもいいことなのかもしれない。