コラム「猫の手も借りたい」№220 喪失感
ネコのことでいつも話を聞いていただいたり、聞いて差し上げたりしている「ネコ仲間」のAさん。
Aさんの可愛がっていらしたネコちゃんが先ごろ亡くなった。
Cちゃん/6才のオス、慢性腎不全での2年程の闘病の末だった。
Cちゃんは、まだ6才、先天的に腎臓が弱かったようで、それと判った時からAさんは、投薬や闘病食への切り替え、1日1回の皮下輸液と、本当に手を尽くされていた。
なんせCちゃんは若いから不憫だったと思う。
Cちゃんは頑張っていたけれど、少しずつ数値は悪くなって行き、なんとか年は越せるけど春まではどうか、ということになったと沈んだ声で電話をもらった。
それからCちゃんは年を越し、Aさんの手厚い看護を受けて頑張っていた。
Aさんには娘さんがいらして、その娘さんがCちゃんをとても可愛がり、夜は一緒に寝ているとのことで、娘さんは「Cちゃん、体臭が酷くなってきた」などと、病気の進行が疑われるような状況に気づき、心配されていた。
腎臓の数値がものすごく高く、これはいつなにかあってもおかしくない、というところまで来た、と電話があった。
食欲も落ち、食べられるものはないか、と相談があったので、水分も一緒に摂れる「流動食」を何種類かお薦めしてみた。
早速試してみたら、食べてくれた!と喜びの声、こちらまで嬉しくなった。
電話をお互いがするのに、必ずCちゃんの状況を聞き、今日は機嫌がいいよ、普通にしてるよ、となると、ほっとし、いつもCちゃんを案じていた。
私も最初の子は慢性腎不全で亡くしたので、血液検査の数値を聞くと、状況がちょっとは解る。Cちゃんの数値はかなりのもので、よく生きているなあ、と思ったが、とにかくCちゃんは若いので、それも大きかったのではないか。
Cちゃんは難しいのでは、と言われた「春」を迎え「初夏」まで頑張った。
亡くなって寂しいが、正直ほっとした、とAさん。本当にそうである。私もそうだったから。
入院させて看取ってもらうこともできるけど、自宅で看病する限りなかなかスンナリとは看取れない。それは致し方ない。
最初の子を私は病院で亡くした。あれほど自宅が好きだったのに、なんで病院で、と後悔したが、自宅で看取るのはそれなりにキツイ。
私は、タマを亡くした時のコラムを読み返してみた。
「輸液も、投薬も、おしっこのパット替えも、なにもかもなくなって私の生活は一変した……、でも、輸液も投薬も下の世話も、なんでもするから帰ってきて」と書いていた。
亡くなってみて確かに「ほっと」もする。でも、どんなに手がかかってもいいから生きていて、というのも本音である。
Aさん、娘さんが仕事から帰宅された様子だったのに、と娘さんの部屋を覗いたら、電気も点けない真っ暗な部屋で泣いている娘さんを見て、「いい加減にしなさいよ」と叱ったそうだ。
娘さんの気持ちも、お母さまAさんの気持ちも解り、ぐっと胸にきた。堪えるなあ……
トラミの通院で病院の待合室、知人のご年配のご婦人に挨拶した。
ちょいちょいお会いするので、通院の子を抱えていらっしゃるのは察していた。
診察の順番がきて診察室に入られ出てこられた時の表情が、とても明るく、ちょっと驚いた。
「数値で一喜一憂しないように、と肝に命じているんですが、今日、とっても数値がよかったんです」と嬉しそう、マスクの下のお口も口角が上ってるだろうな、と想像でき、私も嬉しくなった。
みんな一生懸命、病気のネコと対峙している。
大切な大切な家族、解ってはいるが、覚悟はしていると口で言ってはいるが、小さきものを看取る辛さ。
楽しかったことをどんなに思い出しても、逝かれた喪失感を拭うことは、私は一生できそうもない。