コラム「猫の手も借りたい」№321 アジサイのアーチ

ムギちゃんを送ってから、早3ヶ月が経とうとしている。
屋外のピックアップからだと4ヶ月にもなる。

彼女の最期の姿が、時々フラッシュバックしてくる。
「ありがとう」と言いつつ、「ごめんよ、助けてあげられなくて」と後悔の念にいつもかられる。イクジなしだからさ、おねえちゃん(ムギちゃんにいつも話しかける時は「おねえちゃん」と言っていた)、いつも涙ぐむ。

フードを準備しエサ場に行くと、ムギちゃんは出迎えてくれる。
そこから20分。大食漢の上、食べるのがゆっくりな彼女は、黙々とフードを頬張りお皿を空っぽにしてくれる。その間私は見守りながら体操をしたり、近隣の様子を見て回ったり。
食べ終わると、満足そうにお口の周りをキレイにする彼女を見ながら、「また明日」とお皿を下げて水を替え、掃除をしてうちに帰る。お皿を洗って片づけをして終了、それでだいたい1時間を要していた。

それをしなくて済むようになったけど、フードもムギちゃんの分は買わなくてよくなったけど、やはり心の中にスキ間が出来たことは間違いない。いわゆる「肩の荷」が下りて やれやれ ではあるんだけど。

「肩の荷下ろし症候群」というのがあるのをご存じだろうか。
長期間、大変なことを無我夢中でやってのける。脇目もふらずひたすら必死でことにあたる。
そのお役目が終わり、ほっと一息。さぞかし楽になるかと思いきや、そのお役目が大きければ大きいほどその反動がきて、精神的にも身体的にも堪える状況に陥ることがあるらしい。
それを「肩の荷下ろし症候群」と呼ぶんですって。なるほど、うまいこと言ったもんだ。座布団1枚!

私は、「症候群」と呼べるほどではないがその傾向があり、多かれ少なかれ心の中に出来た「スキ間」は、なかなか埋まらない。そりゃそうだ、長い長い付き合いをしてきたんだもんね、ムギちゃん。
自宅の飼いネコとは、はっきりと「こうだ」、とは言えないが、なんか違う種類の悲しみがあるように思う。お外にはいたけれど、かけがえのない存在だったことは間違いない。

ムギちゃんは、ここ5年間は ネグラ/居場所 を変えず、同じところにいた。よそのお宅の中庭、というか小さな通路を入った先の、そのお宅の裏手。
私の散歩コースでもあるので、「今でもここにいるよね」と心の中で彼女を呼びながら、そこを通過する。
いつもくぐって出入りしていた「アジサイのアーチ」。
誰も使わなくなったそのアーチは、落ち葉が溜まり放題、くぐっていたアーチも塞がってきて、その先にいた「主(あるじ)」の存在がなくなったことを物語っていて悲しい。たった4ヶ月なのにな、こんなことになるんだね。

毎日一緒に過ごしていたものが、消えてしまう。
不思議な感じ。でも、これって自然のことなんだよね。ペットだけじゃなく、私の家族だって、友だちだってそう。
忘れないよ、出会ったこと。
一緒に生きていたこと。
ずっと覚えているからね。

2025年11月 くどいけいこ