コラム「猫の手も借りたい」№64 最初のパートナー 下
立派な体格で、体重も6キロあった。日本猫の体重は3~5キロと言われているので、けっこう大きい方であった。
甘えん坊で、私が帰宅すると可愛い声で鳴きながら、ごはんをねだった。必ず自分の前足で私の足の甲を踏み踏みしながらのおまけつき。
今のタマはごはんをねだる時、私の足を甘咬みだがかじる。猫によっておねだりの方法は色々なんだなあ。
このころはまだ、海外に年2回旅行に出ていたが、若かったチャオは私が不在になると、お隣の元飼い主、大家さん宅に行き「ごはんくれー」。
大家さんも、よしよしと歓待してくれたようだ。しかし、夜はうちに帰って来てひとりで寝ていたようで、決して元宅には泊まりはしなかったと聞き、後ろめたさに冷や汗がどっと出た。
長丁場でもお利口で留守番しており、部屋を汚すなどの問題行動はいっさいない子であった。
海外から私が帰ると、怒ってしばらくは身を隠し聴こえるのは鳴き声だけ。1~2時間でやっと出て来て怒りながらもスリスリゴロゴロ、それから当分は部屋に広げてあるスーツケースの中に入ったり出たり。
また置いて行かれる、という怖さがあったのだと思う。
一概には言えないだろうが、女の子のタマに比べると男の子のチャオは甘え上手だった。
毎日一緒に寝起きし、共に過ごしたたわいもない日々。
でも、彼がいてくれて心から楽しかったし、可愛かった(猫の話ですよ~)。
大家さん宅の庭は広くて遊び回れるので、彼が自由に庭に出られる彼専用の小さなドアを設置し、他の猫がうちに入れないようにキーロックを掛けた。
私の帰宅を待ち焦がれている彼は、庭続きにあった駐輪場に私の自転車が止まると、必ず駆けて迎えに来た。
こんなに彼に愛されて、幸福だった。
チャオも私と逢って一緒に暮らし、幸せであったと思いたい。
チャオは入院先で亡くなった。
夜間に面会に行った。会えると思っていたから、「坊主(その頃はこう呼んでいた)、どうしているかな・・・」と、そうは言っても彼に残された時は短いのも解っていながら向ったが、私が病院に着いた時には彼は息を引き取った後だった。
末期の腎不全ではあったが、容体が少し上向いたとドクターから連絡があり、喜んで顔を見に行っただけに残念だった。
病院にお礼を申し上げ、彼を大きなバスタオルにくるんでタクシーに乗った。
運転手さんは「大人しい猫ちゃんですね~」と言いながら、自分で飼っている猫の話をされ、しばらくは猫談議が続いたように記憶はしている。
だが、もう二度と目覚めることのないチャオを胸に抱いて、車中でどんな話をしたのか、どんなことを聞いたのか思い出せない。
その日が来ることは頭では理解でき覚悟はしていたが、いざ現実になると取り返しがつかない事態に、私自身が狼狽しジタバタしていた。
その彼と命のバトンタッチをするように、脳炎で苦しんでいたタマが生気を取り戻して行ったのには驚いた。
チャオの形見の、白と茶色の毛の入った小瓶は、時々開けるとかすかだが彼の匂いがする(ような気がする)。
2013年7月 くどいけいこ
Comments are closed, but trackbacks and pingbacks are open.