コラム「猫の手も借りたい」№230 避けていたこと

ショッキングな記事を目にしてしまった。
九州の動物愛護管理センターの職員のことを書いた記事で、その職員の業務の内容は「収容動物の殺処分」。
東京都での収容動物の殺処分は、動物愛護相談センターで行われていた。
訳あってセンターの見学にいかれる機会が何度かあったが、「それだけは勘弁」と、私は一度も足を運んだことはない。
殺処分が嫌で私はボランティアを始めたのもあり、その手の見学はとずっと断ってきた。

ネットの記事では、この職員はその業務に携わって定年を迎えられたことが紹介されており、私は処分になった動物のことを思いつつも、さらにその職員のことを考えると涙を禁じえず、声をあげながら泣いてしまった。

処分機に動物を入れてフタを閉めスイッチを押す。終了後、処分後の動物のなきがらを取り出す。
ご家族にはご自身の業務の内容は話せなかったという。

「一度だけ、処分寸前の犬3匹を機械の陰にかくまって育てたことがある。
1カ月で上司に見つかった。担当を変わるよう命じられたが、申し出て自分の手で処分した。
以来、自分は機械の一部だと思うことにした。『自分は悪くない』。そう言い聞かせた。(原文から抜粋)」

この職員の胸の内を思うと気の毒で、やりきれない思いであった。

1999年、動物愛護管理法が大幅改正されセンターは「共生」に取り組む施設に変わったという。
人と動物の調和、啓発。業務は新しくなり、犬や猫を収容する条件は厳しくなり、処分数は激減したそうだが、その変化にご自分の気持ちが追いつかず、あの犬や猫たちは無駄死にだったのか、と精神科を受診しながら思い悩まれたようだった。
取り組みが改正されたからと言っても、心の休まることはないということだ。

収容動物は、飼い主が連れて来られることもある。理由は様々だが、最も多いのは「高齢飼い主の死亡・入院による飼育継続困難」。その際、譲渡できるような条件の良い個体は少なく、従って殺処分になる子も多い、と書いてある。

私は、高齢者だけを責めるつもりはさらさらない。
高齢者だって、自分の可愛がっている動物を手放したいはずもなく、断腸の思いであろうと想像はつく。
ただ、高齢者自体、思考能力が衰え、安易な判断に陥りかねないこともあろう。
核家族化が進み単身で生活する高齢者に、いったい誰が抑制をかけられるのか。
さらに個人情報の保護の観点からも、おいそれと立ち入れない昨今でもあろうかと思う。

しかし、傍観していても、現状が好転することはなかろう。

高齢者であっても猶予がある間に、動物の有事の際はどうするか、もっと突き詰めると飼い主の万万が一の時の動物の引き取り先をどうするのか、飼い主の認識がはっきりしている間に手当しておかないと、この悲劇は、人によって引き起こされる悲劇は後を絶たなかろう。

この職員は現在、小中学校に講師として派遣され、生命の尊さを教える「命の授業」をされているそうだ。

「子どもたちの前で話すたび、心は乱れる。それでも教壇に立つ。体験を伝えることが、あやめた動物たちへの罪滅ぼし、そう思う。」と記事は結ばれている。

ダメだ、涙が止まらない。

2021年10月 くどいけいこ